「わたしが子どものころ、ミシシッピ西岸にある故郷の町の子どもたちの間に一つだけ長続きす
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る大望があった。蒸気船の船員になることである。いっときはほかに目がくれることはあっても、 |
それはあくまで一過性の野心にすぎなかった。サーカスが来て、去ったあとは、みんなが道化に |
なりたいと身を焦がしたし、当地初お目見得のニグロ・ミンストレル・ショーのあとは、あんな |
暮らしがしてみたいと思いわずらう。これらの野心は抱いた順に消えていったが、蒸気船の船員 |
になるというのだけはつねに変わることがなかった。」 |
Mark
Twain
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『トム・ソーヤの冒険』や『ハックルべリ・フィンの冒険』の著者であるマーク・トウェインは
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この想いを実らせミシシッピ川を航行する船の水先案内人になりました。その後新聞記者を経て |
作家になったのです。 |
「冬の夜長に、父さんは西部の国のことを母さんに話していました。
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西部では、土地が平らで、木がなく、草は丈高く伸びよく茂るのです。 |
そこでは、野生の動物たちは、果てまで見えないほど広い牧場にでもいるように |
自由に歩き回り、食べたいだけ食べられるのです。 |
そのうえ、まだそこに住みついているアメリカ人はいないのです。 |
インディアンだけが、住んでいる所なのです。 |
こうして、小さな丸太づくりの家を残して、一家は旅立ったのです。」 |
Laura
I. Wilder
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ローラ・I・ワイルダーは、1870年代から1880年代に、実際に生きる喜びに満
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ちあふれた少女時代を送り、その経験をそっくりそのまま、私たちの目の前に再現して |
見せました。それが、『大草原の小さな家』を含むインガルス一家の物語なのです。 |
「奴隷たちは、悲哀に満ちた感情を、もっとも熱狂的な調子で歌い、
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もっとも熱狂的な感情を、悲哀に満ちた調子で歌った。 |
わたしが北部にきてから、奴隷たちが歌うのは、彼らが満足して幸福である証拠だと |
言えるような人がいるのにまったく驚いた。これ以上の間違いを思いつくことはできまい。 |
奴隷はもっとも不幸な時に、もっとも歌うのである。 |
奴隷の歌は、心の悲しみをあらわしているのである。 |
痛む心が涙によって和らげられるように、歌によって気持ちが安らかになるのである。 |
少なくとも、これが私の経験である。」 |
Frederick
Douglass
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フレデリック・ダグラスは元は奴隷でした。これは彼の著書『奴隷体験記』に記されたものです。
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奴隷に対する接し方は、人それぞれであったようですが、やはり一般的には家畜や道具並みの過酷 |
な扱いでした。そして、それは法によって正当化されていたのです。 |
「それは奇跡の時代であり、芸術の時代、過剰の時代、そして風刺の時代だった。
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ジャズという言葉は社会的に立派な言葉として認められるようになったが、 |
その過程において、最初はセックスを意味し、次いでダンス、 |
その後、音楽を意味するようになったのである。 |
それは前線後方の大都会の興奮状態にも似た神経の興奮状態と結びついている。 |
様々な原因によって、今やアメリカにも、それに類似した状態が生じている。」 |
F.Scott
Fitzgerald
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第1次大戦終結から1929年の大恐慌にいたる、戦後の繁栄のなかにあったアメ
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リカの代表的一面を指す言葉として“Jazz Age”という言葉と、そう呼ばれる時代 |
が生まれました。ジャズはこの時代から白人社会にも流行し始めるのです。 |
「私にとって歌劇は迫力がありすぎて、一幕もお付合いすると、もう沢山だという感じがする。
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もしニグロ・ショー(ミンストレル・ショー)を完全に純粋な昔のままの形で見ることができ |
たら、私はこれ以上オペラ通いはしたくない。手回しオルガンを伴奏にしたニグロ・ショーは |
高尚で鋭敏な精神の持主にとって、精神・思想を洗練し、高尚にするのになくてはならぬもの |
であると同時に、その道の極致であり、他のどんな形の音楽技術をもってしてもとうてい到達 |
し得ない典型である。」 |
Mark
Twain
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フォスターの曲の多くが、ミンストレル・ショーを通じて世に送り出されました。
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このショーが高尚であったかどうかはともかく、トウェインは相当好きだったようです。 |
彼はフォスターの音楽をどんな想いで聞いていたのでしょうか。 |
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